名残雪

作;フミラ

 オーベルシュタインが見せる意外な素顔。ヴァルハラへと旅立ったロイエンタールに語る真実とは!?
 新帝国歴三年、宇宙歴八〇一年三月二〇日、ローエングラム王朝銀河帝国軍務尚書パウル・フォン・オーベルシュタイン元帥は、新領土<ノイエ・ラント>に於ける不穏な動きを封じる為にハイネセンに降り立った。実戦部隊の指揮官として同行したのは、ビッテンフェルト及びミュラーの両上級大将である。
 オーベルシュタイン元帥は、ハイネセンに到着するや否や、かっての自由惑星同盟で指導的立場に着いていた者達を次々に収監した。いわゆる「オーベルシュタインの草刈り」である。
 これは新領土にかなり大きな波紋を呼んだ。前年一二月に亡くなった初代総督ロイエンタール元帥も、またその後、暫定的ながら新領土を統治したワーレン上級大将及び民事長官エルスハイマーも、決して高圧的な態度に出ることはなく、むしろ新領土に対する態度は柔軟で、不敬罪に値する行為以外は、集会も報道も許されていた。それが、同盟当時の言動を理由に、ある日突然憲兵に取り囲まれ、簡単な取調べだけで裁判もろくろく行われぬまま刑務所送りである。新領土の住民にしてみれば、温かいシャワーを浴びていたところへ、いきなりシャワーヘッドから冷水が降り注いだかのように身震いしたことであろう。
 執務室にこもり、極めて精力的に暴動鎮圧に取り組んでいた軍務尚書が、当面必要な指示を出し尽くしたのは一〇日ほど後のことになる。後はその指示が遂行されるのを確認し、その結果を観察する段階に入っていた。
「閣下、ここのところ、毎晩殆どお休みになっておられないのではありませんか?今日はもう、宿舎の方にお戻りになっては如何でしょうか?」
 先程渡した最後の書類にオーベルシュタインが目を通し終わった事に気がついて、官房長官のフェルナーは、迷った末に控えめに上官に具申した。オーベルシュタインが、自分の行動について人からとやかく言われるのを好まぬことを知っていたからである。軍務尚書には軍務尚書の算段というものがあり、それは余人の意見を差し挟むべきところではない。彼にとって部下というのは、その算段を現実化するための道具でしかなかった。
 オーベルシュタインは、手元の資料を机の上で弾ませて揃えながら、自分の斜め前方に座っている部下の顔を横目で一瞥した。
(しまった。またやってしまったか…。)
 フェルナーは、自分が部下の領分を逸脱したと感じた。
「出過ぎた事を申し上げました。今の言葉はお忘れ下さい。」
 だが、その晩のオーベルシュタインの反応は、フェルナーの予想とは違っていた。
「いや。卿の言うとおり、今日はもう帰るとしよう。この資料の整理を頼む。」
 そう言うと、彼の上官は椅子から立ち上がったのである。
 マントをなびかせて、自分の前を通り過ぎ、ドアの外へと消えていった上官を見送りながら、フェルナーはしばし呆気にとられていた。
(一体、どうなさったというのだろう?)
 興味、というより、それは心配でさえあった。
(まさか体調が悪いとかいうのではあるまいな。陛下も、熱は下がったものの、相変わらず体調が芳しくないようだし、軍務尚書まで倒れたりしたら、帝国は大変なことになる。)
 フェルナーは、他の誰よりも、オーベルシュタインの上にかかっている負担を理解しているつもりであった。並の者ならば、既に倒れていても不思議ではないのだ。
「あのように気が遠くなるような調査」の手法を思いつき、それを実行に移す人である。あの調査の為に、何人の軍務省の職員が体調を崩したことか。そして、その綿密さは、他の課題に対しても、当然要求されていた。
 実際に行動するのは部下にしても、作戦を立て、指揮し、その結果を分析するのは軍務尚書の仕事である。
 一部の実戦指揮官は、軍務省ビルを、どこかの保養地と混同しているらしく、
「我々歴戦の勇士と、安全な場所で、のんびり書類やモニターの相手をしている連中を一括りに軍人と呼ばないでくれ」
と言ったとかいう情報も、フェルナーの耳には入っている。そこには、無意識のうちに、実戦部隊を事務方より上位に置く軍事的浪漫主義の臭いがする。
 しかし、軍務省で働く者にとって軍務省ビルの中は、ビームや砲弾の代わりに情報が飛び交い、時間とせめぎ合う戦場だったと言っても良い。軍務尚書の執務室の椅子は、艦橋の指揮シートと何ら変わりはないと、フェルナーは思っていた。体力的なものはともかく、精神的疲労は、大規模な艦隊戦が何週間も継続しているのに匹敵するだろう。
 後に残った部下の胸中など知らぬげに、ドアの外の軍靴の音は遠くなっていった。

 五〇分程後、オーベルシュタインの姿は宿舎ではなく、合同墓地の中にあった。墓地にいるのは彼一人であり護衛隊の姿さえない。
 実は、建物から出ていこうとする軍務尚書の姿に気がついた護衛隊長ヴェストファル中佐が、慌てて追いかけたのであるが、オーベルシュタインは指先だけで警護は不要であると伝えると、地上車<ランド・カー>内の人となって走り去ってしまったのだ。その後、ヴェストファルとその部下が、軍務尚書の行き先を突き止める為に払った努力と、胃壁に掛けた負担など、軍務尚書の知るところではなかった。

 オーベルシュタインは墓地の中を、奥へ奥へと進んでいった。彼の左右には、延々と真新しい墓標が並んでいる。ロルフ・ベルガー、ローエングラム王朝銀河帝国軍一等兵、享年二〇歳…。リヒャルト・ノイマン、伍長、享年二三歳…。フランツ・マルクス、大佐、享年二八歳…。ハンス・エドアルド・ベルゲングリューン、大将、享年四五歳…。
(これほど多くの者達が、その生を絶たれたのだ。あの戦いで…。)
 オーベルシュタインが歩みを止めた時、その前には彼らの上官が眠る墓があった。

 オスカー・フォン・ロイエンタール
 帝国歴四五八-新帝国歴〇〇二年
 ローエングラム王朝銀河帝国元帥

 たった三行の簡潔な碑文。
 しかし、オーベルシュタインは知っていた。どれほど長い叙事詩も伝記も、人一人の人生を、余すところ無く伝えることなどあり得ないということを。それならば、いっそ短く、何の憶測も感情も含まない、こんな簡潔な碑文の方が、かえって故人の為にはいいのではないか?
 墓碑の前には、青味さえ帯びた白薔薇で作られた小振りの花束が、このところの寒さが幸いして、色褪せることもなく置かれていた。花束の大きさや好みから言って、おそらく女性が手向けたものであろう。
 この墓の主は、どこに行っても女性とは縁が切れないらしい、とオーベルシュタインは思った。それもまた彼らしい。

「久しぶりだ、ロイエンタール元帥。卿が皇帝<カイザー>に従ってフェザーンを進発して以来だから、もう一年四ヶ月近くなるのか…。あの時は、まさかこんなに早く、卿が我々と違う世界の住人になろうとは、思いもしなかったが…。」
 オーベルシュタインは、かって、ローエングラム王朝内で主導権を争ったとされる僚友に語りかけた。一部では、自分がロイエンタール元帥を排除するために、ラングを使ったのだと言われていることも知っている。また、そう言われても仕方が無いとも思っていた。
(おそらくは、卿もそう思っていたのではないのか?私が卿を陥れる為に、策謀を張り巡らせ、新領土<ノイエ・ラント>各地での暴動や、ウルヴァシーでの皇帝暗殺未遂事件の糸を引いたと。だからこそ、卿は皇帝<カイザー>の許に、事態の抑止に失敗したことについての許しを得に来なかったのであろう?私が、また何らかの罠を仕掛けて待っているとでも思ったのではないのかね?ロイエンタール元帥。)
 心の中で呼びかけても、勿論返ってくる言葉はない。だが、オーベルシュタインは語り続けずにはいられなかった。
(確かに私は、出来ることならば、卿の皇帝<カイザー>への叛逆の意志が明確に表に現れる、そんな状況を望んでいた。卿に何か足枷を付けたかったからだ。一生外れることのない重い足枷をな。どうしてだか判るかね?別に卿を追放するためではない。むしろ、卿がローエングラム王朝の重臣として一生を終えられるようにと思ったのだ。卿のことだ。一旦、叛意があると周囲に知れた後でそれが不発に終われば、決して二度と叛乱を企てたりはすまい?それは卿の矜持が許さぬ筈だ。違うかね?だが、それは、今回のように戦端が開かれる前に止めねばならなかった。そうでなければ、卿は生きて覇者となるか、それとも死者の列に加わるかのいずれかしか選ばなくなることは明白だったからだ。)
 オーベルシュタインの瞼が、無表情な瞳を覆い隠した。そこには、やや眉根を寄せた、苦渋に満ちた顔があった。
(かって、私は、卿を評して猛禽だと言ったことがある。しかし、猛禽も、野にあって人畜を襲うものばかりではない。人に飼われ、鷹狩りの鷹として生きるものもある。私としては、卿にそうあって欲しかった。昨年二月に、リヒテンラーデ一族の女性が卿の子供を身籠もっているという情報を得た時には、私は内心、快哉を叫んだのだよ。実際に事を起こすことなく、卿を罪に問える。卿に足枷を付ける理由が出来ると…。だが、陛下は、その件について、殆ど何の咎めも与えることなく、ハイネセンの大火の後、卿を新領土<ノイエ・ラント>総督に内定し、しかもそれを公布してしまった。私がその内容を知ったのは、公布の後だ。今更どうすることもできなかった。猛禽は鷹匠の手から飛び立ってしまったのだ。全く何の拘束も受けないままで。再び鷹匠の手に戻るかどうかは、禽<とり>次第になってしまったわけだ。)
 瞳を開いたとき、そこにはいつもの無機質な印象を漂わせた男がいた。
(ラングが何かしら企んでいることは、私も気付いていた。その背後に、ルビンスキーがいるらしいということも…。だが、まさかあんなに早くに事が起こり展開していくことになろうとは、私も予想していなかった。私がラングに望んでいたことは、卿に黄金獅子の尾を踏ませることだけだ。皇帝<カイザー>の怒りが卿に向けば、あの男のことだ。それで満足して、捕らえられても、いたずらにルビンスキーの居所を隠すことはないと読んでいたのでな。卿の野心を明らかにするという点では、ラングは私の期待に応えてくれた。いや、期待以上だったと言わざるを得まい。)
 オーベルシュタインの口元に苦笑めいた影が浮かんだ。軍務省関係者たちが見たならば、恐らく一斉に驚きの表情を浮かべたに違いない。
(実は、ウルヴァシーでの一件が起こり、ミッターマイヤー元帥に卿を討つようにと勅命が下った後でさえ、私は、まだ事態を納めることが出来るのではないかと、甘い期待を抱いていたのだ。卿は知るまいがな。)
 そう、あの時、自分はラングを伴ってハイネセンに飛ぶつもりでいた。ハイネセンでロイエンタールに会い、ラングとルビンスキーの関係、そして、ラングが知る限りのからくりを、洗いざらい彼に告げるつもりであった。
 ルビンスキー達に踊らされていたと知れば、あの異常なまでに誇り高い戦士は、その者達の思い通りに剣を振り下ろすことを良しとはしないであろう。そして、いったん鞘に収められた剣は、二度と主君に向かって抜かれることはない筈であった。
 勿論、彼一人に、喜劇<パーレスク>役者の役割を負わせるつもりはなかった。自分もまた、部下の管理が行き届かなかった罪を潔く受けるつもりでいたのだ。何分にも、銀河全体を揺るがした大事件の原因を作ったのだから。
 そして、元帥二名が予備役に回されたとしても、恐らく時代は再び彼らを現場に呼び戻すに違いない。
 ほぼ銀河を手中に収めたとはいえ、イゼルローンには故ヤン・ウェンリーの信奉者達がいる。主君の性格からして、いつか、それも決して遠くない未来に、彼らとも決着を付けねばならない時が来る筈であった。難攻不落のイゼルローンを攻めるには、ロイエンタールの能力は欠くべからざるものであった。彼がいるといないとでは、味方に於ける損害の大きさに明らかなる差違が生じるからである。
 そしてルビンスキーや地球教徒達は、銀河に陰謀という名の毒草の種を蒔き、それを刈り取る為には自分が必要とされるはずであった。
 だが結局、自分がハイネセンに赴く機会はなかった。事態は予想を越えた速度で展開し、親友同士が戦火を交え、帝国は建国の功労者をまた一人喪った。
(卿をあのような形で死なせたことは、帝国にとって大きな損失だ。少なくとも、卿はまだまだ、帝国にとって必要な人間だったのだ。だが、私は、結局卿を救うことが出来なかった。卿だけではない。卿と陛下、二人の矜持のぶつかり合い、私戦に巻き込まれた将兵達もだ。キルヒアイス元帥の時同様に、その遠因は私にあるのだろうな…。だが、卿の死によって、当面の間、帝国を内部から引き裂くような事態は起こらないだろう。双璧の一人として謳われた帝国屈指の名将の叛乱とその結果は、新たに簒奪を企む者への警告となった筈だ。それだけが、あの戦いの唯一の歴史的意義か…。だが…これから先も、同様のことが起こるのだろうか?それを思うと、私はとても暗澹たる気持ちになるのだよ。いくら、理想の世の中を創るためとはいえ、共にあった仲間を喪っていくのは辛いものだ。私ですらな。陛下は私以上に卿の死が辛かったことだろう。陛下にとって、卿は自分の身体の一部のようなものであったろうから。私の見るところ、陛下にとってキルヒアイス元帥は心臓、卿とミッターマイヤー元帥は両腕だった。心臓は、感情の住まうところ。理性と相反する場合もある。だが、人間には、決して心を切り捨てることは出来ない。手足は、心のように、決して切り捨てられない代物ではないが、それを喪うには相当の痛みを伴うし、喪った後は、代替えの手足を得たとしても、不便さを感じることだろう。…では、私は陛下の何かと卿は言うのか?)
 しばしの間、オーベルシュタインは自問した。
(私は、恐らく、一生陛下の身体の一部にはなれないだろう。私は、結局、私でしかない。どんなに長くお仕えしても、せいぜい、手に馴染んだ身の回りの品だ。私が死んだとしても、陛下はそれほど哀しんだりはなさるまい。それで良いのだ。A<アー>にはA<アー>に、B<ベー>にはB<ベー>に合った有りようというものがある。何も、あの方にお仕えする者全てが、あの方に同化する必要はあるまい。陛下のお側近くにあっても、陛下とは別の視点から、あの方と、あの方を取り巻く状況を見つめているものが居てもおかしくはあるまい。私にしたところで、最初にあの方に近づいたのは、私が望む方向に、世の中を動かす為の道具としてだった。もし、私の望み通りに使えない代物と判れば、さっさと見切りを付けるつもりで居たのだ。もっとも、今では少々、その道具に愛着を覚え、簡単には捨て難くなっているのだが…。こうやって人は、軛<くびき>に身を縛り付けられていくのかも知れない。あまり私にとっては、嬉しいことではないのだがな…。)
(そうだ、卿は私の今回の新領土<ノイエ・ラント>でのやり方が不服かも知れぬな。私にも判っているのだ。収監している人物達に捕らえられねばならない程の罪がないということは。あの逮捕の目的は、実は別のところにある。と言えば、卿ならば察しがつくだろう?そう、ルビンスキーや地球教徒達の道具にされないように、収監という形で彼らの手の届かぬところへ隔離したのだ。奴らが何か事を起こすとしたら、自分たちが矢面に立って動くことはない。卿の場合同様、誰か、それにあった器の者を罠にはめ、我々の前に立たせてくるだろう。そんなことの無いように、しばらくかっての同盟の名士達には、俗世間とは離れていて貰いたかったのだ。道具を失った奴らがどう動くか見たかった、ということもある。もしも、業を煮やして、自分たちで動くようなことがあれば、奴らのしっぽを捕まえる好機になるだろう。それに、かっての共和主義者達の指導者を収監すれば、イゼルローンの残党も、自分たちの存在の正当性を主張する為にも、何らかの行動を起こさざるを得まい。少なくとも、彼らとの関係の突破口にはなる筈だ。)
 生者に対しては話せぬ事も、死者に対してならば語ることが出来る。もし、ロイエンタールが生きていた頃に、このように彼に胸襟を開いて忌憚無く語ることが出来たならば、悲劇は防げたのだろうか?オーベルシュタインは、諸将の中で、ロイエンタールが最も自分と近い思考を持っているのではないかとは感じていた。彼ならば、銀河から戦乱が姿を一時消した場合、自分と同じ立場に立てば、おそらく、自分と殆ど変わらない決断を下すようになるのではないか、と思ったこともある。ロイエンタールは、帝国の中で、自分の一番の理解者となったかも知れないのだ。
(しかし、それは出来ぬ相談だ。)
 オーベルシュタインは、その疑問を振り払った。
 オーベルシュタインは、決して誰にも自分をさらけ出すことはなかった。そしてそれは、このときから数えておよそ四ヶ月後に、彼がその生を終えるまで、変わることがなかった。おそらく、刻<とき>を遡って、やり直しを許されたとしても、オーベルシュタインが他の者に胸の裡<うち>を語ることはなかったであろう。
 生者は変化する。味方と信じていた者が、いつしか強大な敵となることもある。だが、死者は留まった場所にしか居ない。もし、死者に対する評価が変わるとしたら、それは死者に原因があるのではない。生者の方が変わったのだ。変わらないものは、信用することが出来る。だが、変化しうるものは、決して信じてはならない。常に警戒し、疑ってかかる必要があるのだ。自分自身さえも。
 オーベルシュタインは、出来うる限り、変わりたくはなかった。変われば、今まで自分が求めていたものが見えなくなってしまうのではないかという不安が、経験を積めば積むほど大きくなった。尊敬できる上官が、昇進や結婚を機に、己の保身だけを考える小心な人物に変容するのを幾度目の当たりにしたことだろう。
「卿は予より一五歳ほど年長だったと思うが、未だに家庭を持たぬではないか。」
 主君は、結婚を勧めた自分にこう言ったが、自分は結婚したいとは思わなかった。主君には、オーベルシュタイン家が断絶しようと、世間は構わないだろうと言ったが、本心を言うと結婚したくなかったのだ。結婚して、妻や子を持てば、守らねばならないものが新しく増える。今のままの自分ではいられなくなる。これまで大切に守ってきたものが、そうではなくなるかも知れない。それが恐ろしかった。自分の家族の為に権力を行使する日が来ないと、誰が言えよう?それでは、ゴールデンバウム王朝の門閥貴族達と何ら変わらないではないか。自分が求めた、「出来うる限り多くの者達が、平等に幸せを保証される国家」という理想からは、離れていってしまう。自分が家庭を持つとしたら、それは、権力を全て手放した後のことだと、オーベルシュタインは思っていた。妻はともかく、我が子への愛情は、時として親を狂わせる…。
(子供と言えば、卿の子息はミッターマイヤー元帥の許で元気に暮らしているようだ。母親の方は、ラングの供述で、昨年秋まではルビンスキーの許にいたらしいという事が判っているのだが、卿の許に子息を残して消えた後の消息は未だに知れない。私は、母が妊娠初期に跳躍<ワープ>をしたということが原因で、この通り、眼球に障害を持って生まれてきた。だから、私同様、胎児期に跳躍<ワープ>に晒された卿の子息のことが、少し気になっていたのだ。何事もなく生まれて本当に良かったと、嘘ではなく、心から思っている。だが、私は自分のことを決して不幸だとは思ってはいない。障害を持って生まれたが故に、見えた事柄も多かったのだから…。だが、障害を持たずに生まれていたら、また別の人生もあったことだろう。どちらが幸せであったかは、両方生きてみないことには判らないが…。それは卿も同じだろう?金銀妖瞳<ヘテロクロミア>が良かったのか、それとも両眼とも同じ色の瞳を持って生まれてきた方が良かったのか。少なくとも、卿はその金銀妖瞳<ヘテロクロミア>故に、卿たりえたのだからな。)

 ふと、義眼に、白い物体の降下が映った。空を仰いだオーベルシュタインの額に、そして頬に、極々僅かな質量の降下物が冷たい感触を与えた。
「雪か…。名残雪だな。」
 再び、今は亡き僚友の墓碑に向き合う。
「いずれ、私も卿のいるところへ行くことになる。その時には、ゆっくりと語り合いたいものだ…。信じてもらえないかも知れぬが、私は卿のことを、決して嫌いではなかった…。」
 義眼の軍務尚書は、墓碑の前で敬礼をすると踵を返し、先程来た道を辿り始めた。来た時同様、まるで、今白片を落とし続けている空のように、心の中に重苦しく灰色の雲が垂れ込めているのを、オーベルシュタインは感じていた。この重苦しさは、決して一生晴れることはないのだろう。ローエングラム王朝の成立も、安定も、自分の功績とされる事象も、全ては誰かの犠牲の上にある、そのことを忘れることができぬ限り…。そして、それを忘れることは、決してあってはならないのだ。自分が自分でありつづける為には。
 うっすらと白くなった通路に、大股に歩く軍靴の跡が残り、そして、再び雪がそれを覆い隠していく…。それは、まるで、オーベルシュタインがロイエンタールの墓所を訪れた事実を隠すかのようであった。

 ビッテンフェルト上級大将とオーベルシュタイン元帥の間に、大きな衝突が起こるのは、この二日後のことである。

【名残雪・完】





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