オーベルシュタインの休日

作;ノリラ

 オーベルシュタイン閣下、カッケー!と思ったノリラが、閣下をもっとカッコよく描きたくてひねり出した短編小説
 灰色のマントをまとい、灰色の雰囲気をまとった長身の男が、灰色の表情のまま扉を開けた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
年老いた執事が出迎え、年老いたダルメシアンが靴の匂いを確認しに寄ってきた。長身の男は後ろ手に扉を閉ざし、ロックをかけた。その瞬間、彼の表情が、ごく僅かに、まさにそれを読みとれる技の持ち主はいまいと思えるほど僅かに変化した。なごんだのである。軍務尚書オーベルシュタイン元帥が、私人にもどった瞬間であった。
 犬の長い顎の下を撫で、首の後ろを強く揺さぶる。犬は嬉しそうだ。目を細め、耳を寝かせ、毛のない垂れた尾を振り子のように動かしている。緩慢な動きだが、これでも老犬にとっては快活な動きの方だった。しかも、日中はこれほど「快活」に振る舞うことはない。老犬にとっては、尾を振るだけでもそれなりの理由が必要なのだ。
「お手紙が届いております。爆発物反応はございません」
「私の部屋へ・・・」
ラーベナルトは無言で下がった。主と同様、無駄な口はきかない。この屋敷の掟だった。

 軍服を脱ぎ、食事をすませたオーベルシュタインは、老犬と共に自室にこもった。おそらく軍の関係者の中で、私服のオーベルシュタインなどというものを見たことがある者はいないであろう。オーベルシュタインは、明らかにリラックスしていた。彼の顔筋ははなはだ退化してはいたが、公人と私人の区別を己に示すだけの機能は残していたのだ。
 無私の人、オーベルシュタイン元帥にも、私人としての時間はあり、それ以上に青春のほろ苦い時間の記憶があった。今日届いた手紙は、それを彼の絶対四度に保たれた脳髄から引き出すことに成功していた。
 オーベルシュタインは、足を伸ばし、なつかしい響きを有する女性の名が記された封書を開けた。老犬は主の足の上に細長い顎をのせ、上目遣いに主の顔色をうかがう。オーベルシュタインの義眼が、整然と並んだ帝国公用語の羅列を追った。
 しかし、その瞬間、義眼の両目が赤く点滅を始めた。光コンピュータを搭載した優れもののアイテムであったが、寿命が短いのが欠点である。通常の人間の視力を補うだけなら、もう少し頑強なタイプのものもあるのだが、彼の義眼はある目的のための特注品だった。予備の義眼は用意しているが、それに替えている時間が惜しかった。オーベルシュタインは両の目尻を強く抑えた。経験上、そうすればしばらくは使えることを知っていた。

 『パウル。お久しぶりですね。あなたの活躍ぶりは、ここ、ヴェスターラントにまで聞こえています。あなたはウルリッヒ・ケスラーとともに、私たち同期の誇りよ。もっとも、そう思っているのは私だけでしょうね。』

 オーベルシュタインの胸中に、久しく忘れていた感触が、波紋を描きながら広がった。皮肉屋で冗談が多く、ディベートとなると無敵の女王の名を欲しいままにしていた平民出の女性が、波紋の中に立っていた。彼女だけは、オーベルシュタインを畏れても嫌ってもいなかった。その一点においてだけでも、彼女は特別な存在だった。

『・・・ところで、いったい誰なのかしら。この馬鹿げた案の言い出しっぺは。ヴェスターラントの名を変えれば、過去の忌まわしき記憶が薄れるとでもいうのかしら。何という名にするの?まさか、セント・アーバーエーではないでしょうね(笑)。』

 彼女はとにかく変わり者だった。士官学校において女性であるということだけでも珍獣扱いされるべきであったが、軍事戦略科で優秀な成績を納めながら、あっさりと士官の道を放棄してテクノクラートに転向してしまったという、前代未聞の経歴の持ち主でもあった。現在はヴェスターラントの再生計画に参加しているはずである。

『ヴェスターラントはとてもいい土を持った星です。放射性物質の除去作業は終わったので、後は水さえ運んでくれば、宇宙一肥沃な惑星になるでしょう。山脈に沿って高純度希土類元素の鉱脈が走っているので、それだけでも大変な価値のある惑星です。ブラウンシュバイク公には先見の明が僅かばかりも備わっていなかったようね。それに比べると、新帝国は実に目の付け所がいいわ。言い出しっぺは皇帝陛下?それとも、パウル、あなた?前者なら、熱核攻撃をわざと見逃した事に対する贖罪のつもりがあったのでしょうし、後者なら、貴重な資源を無駄にしないためという根拠以外はないのでしょう。』

 ブラウンシュバイク公の愚行を、ラインハルトがわざと見逃したという噂は、広範囲には伝わっていない。オーベルシュタインが情報をコントロールした結果、その『事実』は外へは広がらず、ヴェスターラントにゆかりのあるもの同士の中へと、濃縮されつつ収束したのだ。それはオーベルシュタインの狙い通りだった。皇帝に対する疑惑、怨恨、反感などのマイナス因子は、一カ所にまとめ、組織化させた方がよい。その中心を常に監視していれば、危険は防ぐことが可能だ。叛乱分子は自らの意志で組織し、活動しているつもりになっているが、実はオーベルシュタインの手のひらの上で蠢いているに過ぎない。ラインハルトでさえ把握していない、オーベルシュタインの陰の功績である。

『私にとってはどちらでもいいの。やりがいのある仕事が回ってきたというだけで満足です。でも、星の名前を変えようというのには賛成できないわ。さすがにその案を提案したのは皇帝陛下ではないでしょうけど、その案が通ったという事は、帝国の中枢に欺瞞という病気が芽生えつつある証拠ね。』

 相変わらず手厳しい、と、オーベルシュタインは嬉しい気分に包まれた。惑星改名案を出したのは、他ならぬ彼自身だったのだ。勿論、彼女が言うような批判が出ることは承知の上である。しかし、この件についてオーベルシュタインが相手にしなければならないのは、彼女のような見識に富んだ論客ではなく、新皇帝と新帝国に未来を見出したがっている無数の臣民であった。

『ところで、パウル、あなたに頼みがあるの。士官学校一の美女にあんなことをしてしまったからには、あなたは私に一生逆らえない筈よ。』

 身に覚えのない非難を受けて、オーベルシュタインは面食らった。が、すぐに彼女一流の冗談であろうと納得することにした。士官学校一の美女といっても、彼女は紅一点であった。女性の士官学校生は、実に七〇年ぶりの快挙であった。果たして彼女は美人だったのか。オーベルシュタインには、その答えを出すことができなかった。義眼の能力の限界がそこにあったのだ。

 彼の両親は、必ずしも望んで彼をもうけた訳ではなかった。未婚で若すぎる二人にとって、生まれてくる子供の将来はおろか、自分たちの明日さえ霧の中であったのだ。堕胎する費用すら用意できず、自然分娩とは名ばかりの自力出産によって産み落とされた赤ん坊は、白濁した眼球を有していた。良心や責任感というものがまったくなかったわけではない。が、偶然にも歩いていける距離に孤児を受け入れる施設がなかったら、彼の命数はそれまでであったろう。
 第二十三代皇帝、晴眼帝マクシミリアン・ヨーゼフ2世の時代に、ゴールデンバウム王朝最初にして最後の弱者救済的厚生施設が設けられた。孤児院もその一つである。その後、予算は削られ、多くの施設は消えていったが、奇跡的にその施設は生き残っていた。
 さらに彼の幸運は続く。子供のいない貴族が、養子を求めて孤児院を訪れたのだ。突然変異的に良心的な貴族、オーベルシュタイン夫妻は、目に障害を持った彼に著しく興味を抱いた。下級貴族であり、先祖から受け継いだ資産はあまりないが、司法省を引退して私設の法律事務所を営む彼らは、裕福な部類に入った。福祉、救済といった、この時代に欠落している要素を、法律の面からバックアップすることが事務所の方針であり、平民からの絶大なる支持と司法省勤務時代のコネによって、営業は順調だったのだ。敵は多かったが、何者かによる私刑で惨殺されるまでには、その時点から五年を待つことになる(もっとも、それらの偶然が重なったことを根拠に、自分の存在に神秘的価値を見出し、選民意識を持つに至るほど、パウル・フォン・オーベルシュタインはロマンチストではなかった)。
 パウルと名づけられた赤ん坊は、既に一歳を過ぎており、たとえ視力を回復できても、物の形や色を認識する能力を身に付けるには遅すぎた。サイバネスティクス科の医師と相談の結果、パウルには特殊な義眼が与えられた。知覚と認識を光コンピュータが代行し、脳にその結果のみを伝える機能を持った特注品である。
 物の形や色を知覚する能力は、人間であれば大差はない。しかし認識は千差万別である。脳細胞の中には、様々な形と色にそれぞれ対応して反応するものがあり、どの神経経路が強化されるかによって、好みやセンスといったものの差違が発現する。人によっては他人にはおよそ信じられないようなセンスを有する者がいるが、それはその者の幼い頃の環境によって決定付けられる場合が多い。しかし彼の場合、知覚は人並外れて正確であるが、認識は実に非感覚的であった。あらかじめ組み込まれたプログラムを通してしか認識できないためである。経験や学習が、視覚の認識領域に反映されないのである。
 そんな彼が好む形状は、直線、円、及びそれらの組み合わせからなるシンプルな幾何学的様相であり、複雑なものを見ると光コンピュータに負荷がかかって、ただでさえ寿命の短い義眼が更に寿命を縮めることになる。だから自宅と軍務省内は常にきちんと整理整頓されていなければならず、日頃から雑多で無用な物を見過ぎないように半眼を維持していなければならないのだった。
 そんな彼にとって、女性の美しさなどという複雑で感覚的なものが、理解できようはずがなかった。しかし、容姿の美しさが持つ重要性は理解している。例えば皇帝ラインハルトの場合。多くの臣下が皇帝に心からの忠誠を誓っているが、その中には信仰、崇拝といった質の感情を交えているものが少なくない。オーベルシュタイン自身も皇帝には魅力を感じているが、それは飽くまで忠誠を尽くして能力を発揮する場を与えさせる対象として捉えているがためである。この違いは皇帝の美しさにあると彼は分析しているのだ。理性は理論的結論を、感覚は感情的結論を導く。皇帝は軍事的天才と並外れた覇気に加え、類まれなる美しさを兼ね備えているからこそ、カリスマ性を発揮できる。民衆に慕われるより畏れられる君主をよしとするマキャベリズムは、この皇帝には例外的に適応できないというのが、現在のオーベルシュタインの結論である。

 「美しさ」という、感性に訴える要素を彼は認識できない。だがそれがゆえに、本質を見抜くことができる。彼女は魅力に富んだ女性だった。男どもが彼女の話題を口にする時は、おおむね「生意気な」「いまいましい」「女だてらに」といった形容詞が切り離せなかったが、それは弁論において彼らが彼女の足元にも及ばなかったためである。容姿について誰かが何かを口にするところには、オーベルシュタインは出くわさなかった。取るに足らない凡庸な容姿だったのか、十分美しかったが負けを認めたがらない男たちが意識的に無視していたのか。
 どちらでもよいことであった。彼女は常に、彼と対等な立場にいた。彼を畏れることも毛嫌いすることもなかった。その点において、彼女は誰よりも理知的な精神の持ち主だったと言える。そして誰よりも彼の理解者であった。それ以上の何を求める必要があろうか。現にこうして、自分はオーバーヒート寸前の義眼を取りかえる暇も惜しんで、楽しく手紙を読んでいるではないか。
 彼女の頼みとは、惑星再生計画への予算と人員の追加であった。勿論、計画の立案と執行は工部省が担当していたが、実際の人員は軍務省からの応援が三割以上を占めていたのだ。同盟側が鎮静しているこの時期、オーベルシュタインの的確な判断によって回された人員と予算だった。それを更に増やせと言う。短期集中的に成果を上げるためには、致し方ないのかも知れない。

『それでは、本題に入ります。』

 彼女からの手紙は、こう続いていた。オーベルシュタインへのお願いというのは、どうやら本題ではなかったようだ。彼は目尻を押す力を強めなければならなかった。

『ヤン・ウェンリーの伝記風読み物を入手しました。フェザーンの通信販売で。数ある同様の本の中でも良心的な部類にはいるという書評を信じて買ったのだけど、果たしてそうなのかしら。どうもあちらの書物には、ジョークや皮肉が多用される傾向が強くて、読むときには注意が必要です。主旨を見失わないようにするためには。
 ヤン語録の中に、こういうのがありました。・・・テロによって歴史は動かない・・・。あなたは、昔私に言った台詞を覚えている?・・・テロによって失われた輝かしい未来の、なんと多いことよ・・・。
 私はあなたとヤン・ウェンリーに、ちょっとした共通点を見つけました。ヤン・ウェンリーは本当は歴史学者になりたかったそうです。学生時代は歴史の本ばかりを読んで過ごしていたとか。彼の天才的な戦略構想は、実は古い歴史の中に登場した様々なパターンのアレンジに過ぎないとも書いてありました。彼は歴史の表に関心があり、それを貪欲に学び、活用したわけです。そして、我らがパウル・フォン・オーベルシュタインは、歴史の裏に関心があり、テロの歴史や手法を貪欲に学び、それを現に活用しているわけです。本当に、あなたの関心は片寄っていたものね。科学技術の進歩により戦争の手法は様変わりしたが、テロの手法は時空を越えて普遍的だ、とか言って。』

 本当のことである。オーベルシュタインは、もし裏歴史学という学問の分野が存在したなら、帝国一の権威になれただろう。彼の冷厳なる頭脳の中には、古今東西のテロ事件に関するデータが、整然と保管されていた。ことに、実行者と被害者の心理解析に関しては、なまじっかな歴史学者が太刀打ちできる程度のものでは到底なかった。彼はその知識を活かせば、宇宙の端にいるターゲットでも確実に暗殺できる死神となり得たであろう。そうならなかったのは、寡黙にして冷徹非情と信じられているこの男が、実は常に破壊より創造を、回避より開拓を好む、活力に富んだ精神の持ち主であるためである。その上、彼は誰よりも正しく理解していた。テロ行為は使いようによっては絶大なる威力を発揮するが、その効能は刹那的なものにしか過ぎないということを。ヤン・ウェンリーの言葉はまさにそのことを指している。ヤンは歴史の大きなうねりに対して、テロリズムの無力さを指摘したのであり、オーベルシュタインは被害者個々人の未来とそこから派生するはずだった無数の未来に想いを馳せていたのだった。

『そのあなたが、テロの標的になるのだから、運命とは皮肉なものね。ヴェスターラント出身の元軍人が中心になっている地下組織を御存知かしら?又聞きなので正確なことは分からないけれど、なけなしのお金をはたいて、テロリストを雇ったようです。標的はヴェスターラントの悲劇を起こした張本人(彼らはいつの間にかそう信じるようになっています)のオーベルシュタイン帝国元帥。あなたのことだから、とうに情報はつかんでいるとは思うけれど、念のためにお知らせしたくて、手紙を書きました。
 あなたが教えてくれた通り、セキュリティ上、最も優れた方法を用います。メールで打てば2週間前に伝えられたのに。紙に記したこの手紙は、ひょっとすると、テロリストと同じ便であなたの私邸に届くかも知れません。
 久しぶりにあなたの古典エンターテイメント論評を聞きたいものです。』

 手紙はそこで終わっていた。オーベルシュタインは、口元から静かな息を漏らした。そして、もう一度はじめから読み直す。彼女は彼の身を心配してくれているようでもあり、それにかこつけてよもやま話をしたかっただけのようでもある。いずれにせよ、オーベルシュタインは楽しんでいた。滅多に取れない休日は、さいさきの良いスタートを切ったようだった。

 老犬が低く唸った。窓の外を睨んでいる。昼あんどんを決め込んでいる横着者だが、年老いてもなお、猟犬としての本能を忘れてはいないようであった。相手が殺気を放っている場合はなおさらである。
「分かっている。お前はここにいろ」
二通り目を通した手紙をデスクに置き、オーベルシュタインはふと短い息を吐いた。明かりが消え、庭の暗闇が室内まで流れ込んだ。
 スナイパーは驚いた。今まさに、軍務尚書のこめかみに、標準器の十字線の中央を固定した所だったのだ。目が標準器の暗視モードに慣れたとき、青白い顔をした軍務尚書は、すでにいなかった。標的を見失った男は、音のない舌打ちをすると、庭草の影で立ち上がった。庭に侵入するまでは、あっけないほど簡単だった。ありきたりの侵入防止装置が、ありきたりの位置に取り付けられているだけだったのだ。泥棒は撃退できても、プロには通用しないしろものだった。
 銃を下げた暗殺者は暗闇の中で無意味な思考を展開していた。依頼されたターゲットは、軍務においては比類なき洞察力を発揮する人物として有名だが、プライベートにおいては凡庸な注意力しか持たない男なのだろうか。或いは銃撃戦のさなかでも、自分にだけは弾が当たらないと信じている猛将タイプか、はたまた、自己評価が甚だ低く、守るべきものを何も持たない男なのか。
 いずれにせよ、窓の外からの銃撃は不可能となった。作戦を変更し、屋敷への侵入を敢行しなければならない。建設的な方向へ思考が向きかけたところで、男は何者かに背後を取られたことに気が付いた。冷気のようなものが肩越しに漂ってくる。この屋敷の主が、その陰気な口元から液体ヘリウムを吐き出しているのではないか?男は本気でそう思った。振り向きざまに銃口を相手の腹に埋め込み、引き金を二回連続して引くシーンをイメージしながら、男は言った。
「よく、俺の居所が分かったな?」
「私の目は普通人とは違う」
低く、小さく、陰にこもった声が、男の内臓を震わせた。何という声だろう。相手に死を覚悟させる声。この男は、相手のことを生者と分かって話しかけているのか?生者でも死者でも、犬でも机でも、何が相手でも、この調子で話すのか?今更ながら、男はやっかいな相手を敵に回していることに気が付いた。
「銃を捨てろ」
男は陰々滅々たる声に従った。背後の気配を正確に分析しながら。
「きさまには選択肢を与えよう。憲兵隊に引き渡され、自白剤を打たれたいか。或いは内国安全保障局に連行され、拷問を受けたいか」
「お、お願いです。何でも話しますから、どうか、どうか・・・」
卑屈に前屈みの姿勢をとった瞬間、男の体は宙に舞った。半回転のきりもみをしつつ、右足を繰り出す。蹄鉄を埋め込んだ靴が、破壊力を増大させていた。風を切り裂く音が、男の動きの後からついてくる。右足は男の背後に突っ立っていた長身の影にくい込んだ。肋骨が数本へし折れ、そのうちの何本かは内臓に突き刺さり、残りの何本かは胴体を貫通して大気にさらされた。
 ・・・はずであった。が、男が右足に受けた感触は、人間の腹部とは異なるものだった。人間の胴まわりほどもある、太い庭木。男は、今まで庭木と会話をしていたことを知った。
「ライヒス・カンフーだな。これできさまが軍の関係者であることがはっきりした」
男がはなった技の型を見て、オーベルシュタインは言った。侵入者の末路は決まった。明朝には憲兵本部取調室にあり、夕刻までには霊安室にあるだろう。
 技を外した男は、防御の型も忘れて地に転がっていた。男は不気味な光景を目の当たりにしていた。赤く妖しい二つの光が、漆黒の闇の中に浮かんでいる。赤い光はときおり揺らぎ、点滅し、呼吸をしているかのようだ。男は記憶の中から、古い軍用医療品カタログの1ページを引き出していた。負傷を負った兵士の肉体を補完する、サイバネスティック・パーツ。その義眼は赤外線から紫外線まで、人間の可視範囲を大きく越えた波長領域を認識する。
「そういうカラクリかい」
男はつぶやくと、観念したように頭をかいた。そしてふて腐れたような態度で、腰を上げかけた。横目で暗闇の中の人物を観察する。輪郭ははっきりしないものの、相手は腰の後ろで両手を組んでいるようだ。銃を持っていないのか?はったりで自分を捕らえようとしていたのか?
 今しかない。この期を逃せば、自分はもはや生者としてなすべきことを失う。男は最後の抵抗を試みた。裾の裏からセラミック製のナイフを取り出す。接近戦において、男は敗北を味わったことは一度もなかった。極限にまで研ぎ上げられたナイフは、自重だけで敵の皮膚下に滑り込み、肉を分断し、骨まで到達する。それを扱う男の腕は、芸術の域に達しているとさえ、その業界では評価されていた。
「・・・!」
 男の口から、風のような音が漏れた。流れるような腕の動きは、まったく殺気を放たない。せせらぎの上をたゆたう笹舟の如く、静かに、ナイフは踊った。確実に敵の臓腑を捉え、その持ち主から切り放す。華麗とも言える身のこなしだった。五〇名を越す人間に、この世と決別することを強いた剣の舞である。その動きは、男の体に染み込んでいた。男はそれを忠実に再現したまでである。ただ一つ、いつもと違っていたのは、舞が終わった後に、ナイフには一滴の血も付着してはいなかったことであった。
 残心をもって止まった男の右腕を、信じられないほどの怪力が無造作に掴み取った。長身の軍務尚書が、暗殺者を片腕で持ち上げる。
「手錠は用意してある。後は歩いて逃げられなければよいのだ」
誰に説明するでもなく、静かな声がおごそかに響いた。男の心臓は、凍り付いた。次の瞬間、男は宙に放りあげられた。この仕事を請け負ったことを後悔する時間さえ、男には与えられなかった。
 無様に横たわったとき、男の意識はなかった。両足は奇妙な向きに折れ曲がっている。おそらく当分は自分の足で歩くことは叶わないだろう。もっとも、この男の人生は、明日で尽きることは疑いもない。
「動くな。そこまでだ!」
懐中電灯の強い光が射し、新たなる侵入者の声がした。若い男のようだ。逆光の中、オーベルシュタインの眼前に、ラーベナルトと、ラーベナルトに銃を突きつけた男が現れた。
「旦那様。表に不審な車がとまっておりまして、中にこの者がひそんでおりましたので、連行して参りました」
銃を突きつけている男は、思わず噴き出した。
「おい、じいさんよ。ボケちまってるのか?連行されてるのは、おまえの方なんだよ!」
「ご苦労だった。こちらの賊は終わった。そちらと併せて、明朝、憲兵総監に引き渡すとしよう」
「おい!俺を無視するんじゃねえ!」
「かしこまりました」
ラーベナルトは軽く礼をすると、目にもとまらぬ速さで、両腕から奇怪な動きを繰り出した。若い男は息を呑む間もなく、銃をからめ取られ、関節に打撃を加えられ、延髄に強烈な手刀を打ち込まれていた。明かりのない庭に、一条の光芒と、二つの死体候補が転がった。
「旦那様。お目が・・・」
ラーベナルトの静かな言葉に、オーベルシュタインも静かに答えた。
「ああ、先程から、何も映らなくなった。世話の焼けることだ」
両の赤い光は強度を増し、それは完全に義眼としての役をなしていないことを意味していた。
「替えを冷蔵室から出して参ります」
「いや、まだ部屋に予備がある」
義眼を交換するタイミングを逸した理由を問われないように、オーベルシュタインは話題を転じた。不自然さはまったく感じさせない。
「いささかのおとろえもないな。ラーベナルト」
「旦那様こそ、気配だけでここまで正確に・・・」
「鍛錬はかかしていない。お師匠の言いつけ通りにな」
「師匠はおよし下さい・・・」
漆黒の闇の中、純真なる蟷螂拳の達人は、年甲斐もなく照れたようだった。

 シャワーを浴び、自室に戻ってみると、犬は半分寝入っていた。半眼を開け、主を確認する。主の瞳はすでに警告色を示してはいない。肉体はリラックスしており、精神は私人としての時間を静かに楽しむ準備に入っている。犬はそれだけを察知すると、惰眠を貪り始めた。犬には、人間の心拍音や脈拍音が聞こえる。汗に混じる微妙な化学物質の変化も分かる。犬には嘘はつけない。嘘をつかず、かつ嘘をつけない相手のみを、オーベルシュタインは側に置くのだった。
 白いバスローブの裾をひるがえし、長身の軍務尚書はディスク・キャビネットの前に立った。一番上の段を見上げると、長い髪をくるんでアップにしてあった白いタオルが、柔らかく形を崩す。歴史書を収めたディスクを横にずらすと、そこにはエンターテイメントの古典物が並んでいた。
「ミスター・ビーンも捨てがたい。しかし、ここはジャイアント・ロボ『地球が静止する日』で決まりだな・・・」
血を通わせることを忘れたかのような白く長い指が、ディスクの一つを引き出した。軍務尚書オーベルシュタインにとっての、滅多にない休日が、今、再開した。

【オーベルシュタインの休日・完】





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