あなたの声が聴きたい

作;フミラ

塩沢兼人氏追悼作品 その1
 いつものように、僅かに微笑んで私の頭を軽く撫で、それから表情を引き締めてマントを翻し、屋敷を出ていった主人。しかし、帰ってきた時、あの方はガラスのケースの中に横たわり、その瞳は閉じられたままだった。
 あの方と初めて出会ったのは、まだ、私がオーディンにいた頃。それまで私を養っていた主<あるじ>は、それまで住んでいた屋敷を手放し、何処かへ去っていった。私はその時、置いてきぼりにされたのだ。抱き犬は連れて行かれたのに、何故私だけがうち捨てられたのか?年寄りだったからか?体が大きかったからか?それは判らない。
 何日も何日も、私は町をさまよった。街角のゴミ箱というものも漁ってみたが、私の食べられるものはなく、日に日に肉が落ち、あばら骨が浮き出し、毛並みから艶は失われていった。
 あの日、私は新無憂宮<ノイエ・サンスーシー>を望む広場でうずくまっていた。前を行き交う人々の足音を聞きながら。丁度お昼時で、昼食を取った人々が職場へと戻ろうと急いでいた。周りには幾つもの官庁ビルが軒を連ねていたのだ。私は、地面から伝わってくる音に聞き耳を立てた。その中に、聞き慣れた音が混じっていた。軍靴の響き。大股に、周りの人達よりやや速いテンポで、無駄な力の入っていない軽い足音。
(御主人様!)
 私はその足音の主を捜した。漸く、その人物を見つけた時、その人物は、とある建物に入ろうとしているところだった。
(やっと見つけましたよ。)
 私は嬉しくて、足下に身を寄せた。自然と尻尾が揺れた。
 だが、その人物が私に気が付いて口にした言葉は、
「何だ、この犬は?」
だった。
(違った!)
 絶望的な気持ちが、ゆっくりと胸の奥から沸き上がってきた。だが、天は私のことを見捨ててはいなかった。
「は、あの、閣下の愛犬ではございませんので…?」
 傍らからかけられたこの一言が、私の運命を変えたのだ。
「ふむ、私の犬に見えるか。」
「ち、違うのでありますか?」
「そうか、私の犬に見えるのか。」
 そんなやり取りの後、私を見下ろした人物の瞳は、先程同様冷たかったが、口元には、先程は無かったユーモアの影が浮かんでいた。
 その人物は私の瞳を覗き込んだまましゃがみ込むと、私の首を探り、それから私の顔を両手で挟んだ。
「首輪も鑑札も無いのでは、お前を飼い主の許に帰してやるのは難しいかも知れんな。お前は私の犬に見えるそうだ。どうする?このままいっそ、私の犬になるか?ん?」
 秘やかに私の耳に吹き込まれた言葉。少し鼻に掛かった柔らかい声は、笑いを含んでいた。私はこの申し出を受ける意思を示すため、その人物の顔を舐め回した。隣には、この契約の立会人として、びっくりした顔の男が立っていた。

 新しい主<あるじ>を得て三年、私は幸せだった。
 嗅覚が鈍くなった私には、嘗てのような食欲は涌かない。更に、歯もぐらついている。新しい主<あるじ>は、そんな私の為に、あれこれと工夫を凝らし、遂に私の嗜好に合う餌を見つけだしてくれた。柔らかく煮た鳥肉。口に入れるだけでほろほろと細かく崩れ、丸飲みしても喉に詰まるような事がない。一度これを食べたら、他のものなど食べられたものではなかった。
「全く、我が儘な奴だな。」
 口の付いていないエサ鉢を覗き込んで苦笑しながら、帰宅したばかりの主人は、再び夜の町へと出かけて行った。そして、再び帰ってきた時、その手には、新鮮な鳥肉があった。更に待つことおよそ1時間。新しい主人は、柔らかい鳥肉の入った器を私の前に置いた。拾われた時、すっかりやせ衰えていた身体に肉が付き、毛並みに艶が戻るのに、それ程時間は掛からなかった。
 朝、あの方の目覚めを見守り、あの方を仕事に送り出し、あの方を迎えるのが、新しい我が家での私の仕事だった。その報酬は、温かい手と、他の誰にも聞こえない私だけへの囁き。
「おはよう。」
「行ってくる。」
「出迎え、御苦労。」
 それだけで、私の心は喜びではち切れんばかりになり、ついつい眼を細め、舌を出して笑ってしまうのだ。

 だが、あの日、家に帰って来ても、主人は私に手を伸ばしてもくれず、声もかけてくれなかった。そんなことは初めてだった。家の者達も、いつもならば出迎えの挨拶をするはずなのに、押し黙ったままだ。
(どうしたんです?御主人様?ほら、ふざけてないで…)
 鼻先で、ガラスのケースごと、主人を揺さぶってみた。だが、あの方は起きあがろうとしない。
(?)
 私の肩を抑える者がいた。主人の執事のラーベナルトという老人だ。
「パウル様は、眠っておられるのだよ。その眠りを妨げてはならない。さあ、もうお止め。」
 そう言う老人の声が、何処かいつもと違っていた。見上げると、彼も私を見つめていた。その瞳は常になく潤んでいた。首を傾げる私に、ラーベナルトは頷いて見せた。
「そうだよ。パウル様は深い眠りにつかれたのだ。この世では、決して覚めることのない眠りに。」
 それは、私に言っているというよりも、むしろ自分に言い聞かせているかのようだった。
(もう、決して目覚めない?嘘だ!二度と御主人様の手が私に触れることはなく、その声を聞くこともできないなんて!)
 この老人は嘘を言っている、と思った。あの方は、オーディンの元帥府の前で約束したのだ。お前の残りの生を、私が引き受けよう、と。
 私は抗議の声を上げた。しかし、回りの人間どもは、それを聴いて涙腺を緩めるばかりだった。

 今、あの方は、ここから遠く離れた場所で眠っている。此処よりも、そこの方が静かに休ませてあげられるのだそうだ。
 長い長い眠りから覚めて帰って来たら、きっとあの方は、私の頭に手を置いて、少し決まり悪そうにこう言うに違いない。あの、独特の柔らかい声で。
「私としたことが、すっかり寝過ごしてしまったようだ。ラーベナルトにちゃんと餌はもらったか?」
 そうしたら、私は、待ちくたびれはしたけれど、決して怒ってはいないことを示す為、少しだけ尾を振って、あの方の顔を舐めるのだ。
 あの方が戻るその日まで、私は命の炎を燃やし続ける。

【あなたの声が聴きたい・完】





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