イヌはキレイな目をしてる

作;ノリラ

塩沢兼人氏追悼作品 その2
 モニターの向こう側の若い軍人さんは、こういう役回りに慣れていらっしゃらないようでした。どんな顔をしてみせてよいのかに困り、私への言葉づかいに迷い、ためらわれる内容を伝えねばならない立場に悩んでおられました。お陰で、ほんの短いメッセージをいただくために、随分と時間がかかってしまいました。
 旦那様がお亡くなりになった…。
 それは、ひどく現実性を欠いた体験でした。何のことだろうか。旦那様が、もう、生きてはいらっしゃらないということのようだが…。
 私は、旦那様から以前言われたことを思い出しました。
「ラーベナルト。私は軍人だ。戦場へ出向くことはまずないとはいえ、いつ死んでも不思議ではない。だから私の死後の処置については、文書にしてある」
夕食をお持ちした私に向かって、ある日、そう言われたのです。淡々と、ナフキンを襟に押し込みながら。
 そうだ、旦那様のデスクの引き出しに…。先ほどのヴィジホンでも、若い軍人さんが遺書を引き渡すようにとおっしゃっていました。そうそう。聞いていたつもりで、聞き流していたようです。早く取り出して、旦那様に届けなくては。
 一生懸命歩いているつもりなのに、なぜか、前に進みません。この屋敷はこんなにも広かったのでしょうか?絨毯の弾力も、壁に掛けられた絵画も、いつもと違う雰囲気がしています。妙に、嘘っぽいのです。
 旦那様のお部屋へ向かう途中に、厨房に寄りました。家内の仕事場です。私は家内に、旦那様の死を伝えました。何かを落とす音がしたのですが、気になりませんでした。家内が何かを叫びました。私は、お食事をお出しする時間に変更なしと告げ、厨房を出ました。その時の家内の顔を、どうも思い出せません。私はどこを見て歩いていたのでしょうか。
 二階の旦那様の部屋へ向かう間に、昔のことが思い出されてきました。まだこのオーベルシュタイン家に雇われる前の、それはそれは昔のことです。

 師匠には多くの弟子がいました。陽気な方でした。稽古が終わると、必ず飲み会が始まりました。師匠はいつも言っておられました。
「ワシが死んだら、できるだけ大勢の客を呼べよ。そして、できるだけ大きな声で、できるだけ長い時間、みんなで泣いてくれよ。泣き切るまで泣いてもらわないと、ワシは成仏できんぞ」
 家族や親しい人の死を、どう受け入れるか、そこが大事だと、師匠は酔って演説をぶちました。死んですぐに葬式をするのは、家族たちをその準備で忙殺させることによって、悲しみを紛らわせ、その間に冷静さを取り戻させるためだというのが、師匠の持論でした。冷静になってから思う存分悲しめば、きちんと死を受け入れられる。葬式は残された者のためにあるのだ、と。
 師匠は一年間床に伏せってから、医者の宣告通りの時期に息を引き取りました。大勢の人が集まりましたが、みな、心の準備ができ過ぎていたためか、泣く者はいませんでした。思い出話をし合ううちに、いつしか葬式は飲み会と化し、師匠がそこにいないことも忘れて大騒ぎとなりました。

 不意に、先ほどの軍務省からのヴィジホンが思い出されました。旦那様が、亡くなった…。ことの重大さに、私はようやく気づき始めていました。それは、もう、旦那様にお会いできないということなのか?あの穏やかでお優しいお声を聞くことが、できないということなのか?
 …それはどうしても非現実感極まりない事態でした。私は信じないことにしました。先代の旦那様の頃から当家にお仕えしてきたこの年寄りより、早くに逝かれるなどと、そのようなことがあるはずがありません。
 どうしたことか、私の両手は震えていました。少々、息が乱れ気味です。みっともないと思いながらも、体は言うことをききませんでした。
 引き出しには、公式の遺書であることを示す封筒と、私たち夫婦に宛てた封筒とが入っていました。公式の方を鍵付きのケースに入れ、もう一方を開いてみました。
 そこには、見慣れた旦那様の文字が、几帳面に並んでいました。繊細で、流れるような字体でした。

「1.エンターテイメントのディスク・コレクションは、オークションに出すこと。その際、出品者が分からないようにすること」
「2.離れの建家にある例のコレクションは、親愛なる当家執事、ラーベナルト氏に譲渡する。思う存分使ってもらいたい。」
………

 項目はいくつも続いておりましたが、それ以降は、手が震えて読めませんでした。最後の部分だけが、ほんの一瞬、私の目に飛び込んできました。
「…願わくば、貴殿らに、残された者の悲哀を感じさせたくはないものだ。この書簡が読まれないことを祈りつつ、筆を置くこととする…」

 私は、呼び鈴の鳴る音で、我に返りました。いつのまにか、長い時間が経っていたようです。
 軍務省の職員の方々が、大きなガラスケースを、屋敷の中に置いていきました。ガラスケースの中には、白いお顔の旦那様が横たわっておいででした。穏やかなお顔でした。いつも通りのお顔でした。旦那様はどんなときでも、物静かで穏やかで、よどみのない清流のように物事を進められる方でした。先代の旦那様とは正反対でした。血が繋がっていないからでしょうか。しかし、その精神は見事に受け継がれたと私は確信しています。先代と同じく、旦那様は、世の中を変えるために働きました。そして本当に、大きく、大きく変えてしまわれました。こんなにお静かな方なのに…。
 犬がガラスケースの前から動こうとしません。懸命にガラスの中を覗き込み、耳をそばだて、濡れた鼻を押し付けています。もうこの老犬は、鼻が利かなくなっているはずなのですが。犬の習性でしょうか。
 旦那様は、よくこの犬の顔を薄い手のひらで包み込み、真正面から見つめてつぶやいておられました。
「イヌのシッポはユラユラゆれて、
 イヌはキレイな目をしてる。
 夜になったら、イヌは寝る」
もう十数世紀も前の詩人が、3歳の頃に作ったといわれる詩だそうです。旦那様はそれがお気に入りでした。よく犬に語って聞かせておられたものです。犬は意味など分からないくせに、じっと旦那様の目を見返していました。そんな時、旦那様は、本当にお優しい笑顔をなさっておいででした。先代の旦那様が亡くなり、士官学校へと進学されて以来、ついぞお見掛けしなかった笑顔でした。旦那様に助けられた犬だと思っておりましたが、今思えば、助けられたのは旦那様の方だったのかも知れません。
 私は犬の肩に手を置き、旦那様のように詩を口ずさみました。
「イヌのシッポはユラユラゆれて…」
犬の垂れた耳が、わずかに動きました。ガラスケースから目を離し、私を見ます。老犬の目はシワに覆われて小さくすぼまっており、メヤニで縁取りされていました。旦那様は、この目を見ながら、いつもこう続けておられたのです。
「…イヌはキレイな目をしてる…」
イヌはすぐに私から目をそらし、再びガラスケースの中の旦那様を見つめました。
 何も分からないこの犬は、もはや動くはずもない主人が、もう一度手を伸ばして、自分の頭を撫でてくれるのを待っている…。そう思った瞬間、強烈な現実感が私を襲いました。無慈悲な力が私の心を無造作に掴み、乱暴に揺さ振りました。
「旦那様が亡くなってしまった!」
私は犬の足元に崩れ、突っ伏しました。熱い塊がのどの奥から込み上げ、両目のまぶたを割って溢れ出しました。
 私は、旦那様の死を、やっと受け入れたのです。

【イヌはキレイな目をしてる・完】





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